今日、遠くに住んでいる妹とLINEで会話をしながら、ふと思ったこと。
いわゆるイマドキの若い子議論で、
「最近の若い子には自分自身の軸がしっかりしている子というのはごくわずかしかいない」
という話題になって、僕自身は正直なところ、「イマドキの若い子たち」と接する機会がないと言っても過言ではないくらい、接点がない。そんな自分が言うのだから、的を全然得ていないところがあると思う。でも、僕ら昭和世代の人間からすると、平成生まれの子たちは確かに物足りなさを感じてしまうのだろう。
ただ、彼ら彼女らが育った時代を考えると、僕ら昭和世代が生きてきた時代と全くと言っていいほど異なるものだったのだな、と思った。
例えば、まず学校で教育全般において変化が大きい。
長い目で見れば、さほど違いはないのかもしれないけど、自分の子供の学校の宿題や学童での様子、放課後の活動を見ても、なんだか様変わりしたように思える。特に小学生が犠牲になった凶悪犯罪が相次いで起きたために、学校はオープンな場所ではなくなったと感じるし、子供(自分の子に限らず)が一人で歩いて帰ったりする姿を見たりすると心配でならない。それほどまでに子供たちを取り巻く社会環境は一変してしまっているように思う。
そして、社会情勢においてもバブル経済の崩壊が起きて、阪神淡路大震災、某新興宗教集団による無差別テロ事件。
それまで日本が築いてきたものが、一瞬にして崩れていく様を何度も目撃している。そういった経験から、「人生は一度きり。自分のやりたいことをやろう」と思う若い世代も少なくはないと思う。でも、自分のやりたいことを見つけられた人は幸運で、大半の人は自分の好きなことが何かも分からないまま人生を過ごすことになっている。もちろん、それは今の若い世代に限らず、いつの時代にもいるのだけど。
一生懸命に頑張ったって、たった一度の『何か』で今まで築いてきたものが容赦なく崩れ去ってしまう。バブル崩壊後の社会を生きて、阪神淡路大震災、地下鉄テロと来て、いつまで経っても出口の見えない日本経済。新聞やテレビは批判的なことしか報道しない。そういった報道ばかりを見ていると、自然と人はネガティヴな思考を刷り込まれる。つまり、誰かを、何かに対して文句を言わずにはいられなくなる。
批判的なことばかり言う人間というのは、概ね自ら成長しようとしない。成長したって無駄だ、と言わんばかりに努力をカッコ悪いことを決めつける。でも、批判からは何も生まれないと分かっている頭のいい人たちは、毎日少しずつの努力を積み重ね、努力をしない人たちが到達できないような高みへ登っていく。
イマドキの若い人たちの中にも飛び抜けて成功している20代がいるのは、上記のことをちゃんとやっているからだと思う。
僕の個人的な見解は、イマドキの若い人たちが物足りないのは、彼ら彼女らのせいではなく、僕自身も含め、周りにいる大人がだらしなかったからなんじゃないかと思う。新しい世代は常に古い世代のやっていることを見て育つのだから。子育てと一緒です。子は親を見て、親がやっている通りに子はやります。子は親の鏡ですから。
「そんなことはない。自分はいつだってちゃんとやってる!」
と反論される方もいると思う。そういう方々はそれでいいと思う。その人はちゃんとやっていたのだろうけど、問題は個人個人のあり方ではなく、マスのあり方なのだと思う。
若い世代が希望を持てるような社会にできていないから、若い世代は希望を抱くことさえしない。「そなことはない。若い世代の奴らに覇気がないからだ!」とおっしゃる人もいると思うけど、『北斗の拳』のような世界で希望を持てるのは、せいぜいケンシロウの近くにいた人たちくらいで、大半の人たちは生きる希望すら持てない世界だったはず。
人が希望を抱くようになるためには、「奇跡」を繰り返し見たり体験することが必要なのだと思う。その人自身の先入観では「奇跡」にしか思えないようなことを繰り返し体験することができたら、それが今度は「希望」に形を変えていく。
「イマドキの若いもんは…」とボヤく前に、一つでも彼らに「奇跡」を見せる。それがこの国の将来を守っていく唯一の手段なのですから。