仏教における三毒のお話(その二)

投稿者: | 2015年4月30日

仏教における三毒のひとつ「貪りの心」について、前回は書きました。

今回はその二つ目、「怒りの心」について、またまた書いてみます。

※ちなみに、ここで取り上げている三毒というのは、「貪りの心」「怒りの心」「愚痴」の三つのことです。

■ 不満の表れが怒りに変わる

私が大学で心理学を学んでいた(心理学専攻です^_^)時代、人が鬱にいたるまでのメカニズムというのを学びました。

最初に「〜したい」というような欲求があり、それが何らかの理由で否定されます。否定されたことで怒りが生まれます。しかし、怒っても何も解決せず、ただエネルギーを浪費するだけになり、最終的には鬱になるという仕組みになっています。人が鬱になる仕組みは、基本的にこの流れに沿ってます。

「怒り」という感情が、なんらかの形でわずかでも昇華(消化?)されれば良いのですが、だいたいの場合、怒りの感情というのは雪だるま式に膨らんでいきます。そうなってくると、人に対して怒りや恨みや憎しみなどの超ネガティブ感情のスパイラルとなるわけです。

■ 人を呪わば穴二つ

「人を呪わば穴二つ」とはよく言ったもので、怒りや恨みの感情を人に向けていっても、やがてそれはブーメランの如く、自分の身にも何らかの形で返ってきます。

別の言葉で因果応報とも言いますね。

『ドラゴンボール』の主人公孫悟空は怒りによってスーパーサイヤ人になるというアップグレードがありましたが、私たちの日常において怒りによって超人になれるという保証はありません。

もちろん、爆発した感情によって、一時的にパフォーマンスが上がるということもあるでしょうが、感情が爆発している時点で自滅するのも免れないでしょう。

■ 耐え忍ぶことが大事

怒りや憎しみなどの感情は、大雑把に言ってしまえば、先の「貪りの心」よりも対処しやすいと思います。

「貪りの心」というのは貪欲さの表れなので、自分自身でそれに気づいてブレーキをかけるというのは、なかなか至難の業になってきます。感情が欲望に押されてしまっているので手強いはずです。

一方、怒りというのは自分の欲望が達成されないことへの反応になるので、ワンクッション入る感じになります。

欲望が満たされないことに対して、受け入れる拒絶するかの反応を選択するわけですから、いずれかの方向へ感情のベクトルを向けるように自分で選んでいるのです。

このときにグッと堪えて、耐え忍ぶだけの余裕が必要です。

「耐え忍ぶ」と書くと難しそうに聞こえますが、耐え忍ぶよりも他人事として受けることができれば、ずっと楽になります。

例えて言うなら、感情がふつふつと煮えたぎってきたのを感じ始めたときに、

「あ、自分は◯◯という理由で、いま怒ろうとしているんだな…」

と自分自身の感情を冷静に分析できるようになってくると、気持ちがかなり楽になってきます。これがいわゆるアンガーマネジメントというものですね。

■ 修行は不可欠

こんなことをつらつらと書いていますが、私自身、そんなにできた人間ではないです。時には怒りに感情を完全に乗っ取られることもあります。。。。そして、あとで自責の念に駆られます。

だからこそ、精神修養が不可欠なのです。

私たちは人間性を高めるために、常に天から試されているのだと思います。「自分はこれで”上がり”だ」と傲ってしまうと、人生つまらなくなりますよね。

「私はまだまだだ」ともっと上を目指す方が人生楽しいと思います。

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